しゃしんてん_伊藤圭

写真展っていうものは とても不思議な空間だ。
いち写真家が 写真をかざっている それだけの空間なのに
ギャラリーに入ると 途端にその人の空間に入り込む。
そこは異次元。
その人が作り出したくうき、せかい。




伊藤圭さんは
ネットで見かけただけで 知らない人だけど、人を 撮っている方。




最初HPを見たとき(プロフィールとかすっとばしてギャラリーを見るので)
女性だと思った。




写真は女性の写真も男性の写真もあったけれど
女性の笑顔や空気がやわらかかったから。
女性が 女性を撮ってるんだと思った。




人と、空間をはさんで自分がいるその場所
そこまでの空間の くうきが なにか たぶん こっちにくるんだ。
(うまく言葉にできない)




生で見たいと思った。
その空間(ギャラリー)に足を踏み入れたい。



だから 下北沢まで ガタンゴトンしてきた。










photonica.9を終えてから 写真を1枚しか撮っていない
それも室内で、自宅のトイレに居る、ひつじの写真。




外出時に持ち歩いてもいない。
たぶんいろいろ考える事があって それが手つかずになってる。





自分〜自分だと堂々巡りでうまく解決できないことも

自分〜他人〜自分 と他人を介することで見えてくる事がある。
わたしはいつだってそうやってしか 自分を理解できない。










わたしは ほんとうにはいつも
お話の中でシャッターを切っていたかった。
話す中で笑った顔、しぐさ、息づかい、くうき。





けれどシャッターチャンスはいつも逃してしまうし、
今だと思ってかまえてもシャッターを切るまでの時間がかかりすぎる。
そのうちにもう表情もくうきも、話題さえかわってしまう。





そもそも撮影をするために待ち合わせをするんだから
どうしたって モデルをする友人の脳裏から撮影という文字は消えないのだ。
そしてわたしは撮影のために待ち合わせないと カメラを構える事を躊躇してしまう。
はやく もっと いつも写真撮ってる人って認識を持ってもらえるようにすればいいのに。









展示されていたBOOKの中に
伊藤さんの手書きで こんな言葉があった
(実際の文言はきちんと覚えていないけど このようなこと)





「僕にしか撮れない 彼女があったらいい」






それだ って思った。







京都に旅行に行った時にマサさんが言った。
おおー金閣寺だ。
マサさんは金閣寺を見るのがはじめてだったのだ。




けれどあまり留まらずに先へ進んでしまった。
もういいの?
うん、なんか写真で見るのと同じ風景だし。






風景写真で人に感動を与えられるような技術はもちあわせていない
同じような場所で同じような条件で同じように撮ったら
プリントアウトした時に どれが自分の写真かなんて分からないかもしれない





でも 人を撮った写真はちがう。
レンズを通してシャッターを押す瞬間 私はその人を見てる
わたしのレンズに映ったその人を わたしは覚えている。






プリントアウトされたわたしの写真をみて
そこに映った友人が言ってくれた事がある




「そちらからは そんなふうにみえていたんだね」




対面なのだ。
いつだって 人を撮る時は
一方的なんかじゃない。




わたしが居て その人が居て
そこでシャッターを切ったから 写真が撮れるんだ。





当たり前のことを 最初から当たり前だと思っていると
改めて気づかされたときに驚かされる。





だったらきっと わたしにしか撮れないしゃしんは存在する。
そしてそういう写真を撮りたい。





誰にでも撮れる写真を撮りたくない っていうわけじゃなくて
誰にでも撮れる写真でも 私が撮ったらそれは私の写真だと思ってはいる
けれど そういうことではなくて





人が そこにいた その過去があったから いまこの場所はこのくうきなんだ と
わたしと 人が ここに居るから いまこの場所はこのしゃしんなんだ と
わたしがここに居るから その人は その顔をしていのるだ と




確かめながら撮りたい。







すごくすてきな 空間でした。

伊藤圭HP http://kei-ito.boy.jp/