あじさいを隣に

いったいどういう情報に耳を傾けて、
どういう情報に耳をふさげばいいのか分からない。
きっとこういう悩みは私の世代よりも
子ども達の方が増えていくんだろうな。
 
 
思ったことを、思った時に、だれかと共有したり、
だれかに相談したり、できたらいい。
そういう人がいるだけでも、ずいぶん違う。
特効薬という名のおまもりみたいな。
これがあれば大丈夫って。
 
辛いなって時に、「やすんでいいよ」って言ってもらえるだけで、
ありがとう、もうすこしがんばれそうって思える。
 
昔の日記や、昔よく読んでいた本を読んで、
とても疲れた。
感情が動いてしまって。
いつからか、「今だけだ」って、自分を封印している自分がいる。
 
 

わすれたふり

わすれたふりをする。

もうちっとも、すっかり、これっぽっちも思い出しもせずに、

日々はすぎていっているのだと、

わすれているふりをする。

 

 

子供を産んだときにできるのは

じぶんの分身なのかもしれない

 

あの時からちっとも変っていない自分と

あの時からものすごい勢いで変化する自分がいる。

 

わたしの分身は

あの春から、動けずにいるのに

おなじばしょに行っても

おなじにおいがしても

おなじ音楽をきいても

だれにも会えない。

 

いまはそれが、すこしかなしい。

 

原風景


自分で書き記していたメモ



2013/07/02

冬の夕暮れを思って焦がれている

冬のオレンジ色の薄暖かい夕日を受けながら帰り道をいく
好きなひとと
好きなひとたちと
いそいそと車が通り、遠くで石焼き芋の声がする
たぶん日曜日だ

あした、からお仕事だよ
あした、からまた保育園だね
そんなことを言いながら、手を繋いであるく



何度よみかえしても、胸がきゅーんとなる。
どんな季節に読んでも、その情景を想像できる。
原風景なのかな、わたしの。


好きな人たちと歩く夕暮れ。
少し寒いけれど、夕日が暖かくて、
あったかいお家が待っているから、うれしくて。

ZOO(再び)




勝手に、
のほほんメンバーと呼んでいる。

わたしの、どうしてか大好きな人たち。
わたしの、どうしても大好きな人たち。


マキちゃんがこられなくて
代わりに(代わりに?)たいしくんの子供。


朝、子どもに聞かれる。
おかあさんどこ行くの?
お友達と、動物園だよ。


お父さんが補足する。
ヤギさんと、動物園だよ。


ヤギさんとどうぶつえん・・・
ちがうよ、八木さんだよ。
よくわからない想像図になってしまってる。



初めて行った日から、4年経ってた。
あのときも晴れていた。
マキちゃんは就職して、
たいしくんは、結婚して二児のパパ。
八木さんは個展を開いて、
私は、子どもを産んで。


4年ってすごい。


想像の中で、みんなは出あった頃とそう変わらないイメージで。
だから40歳だ、とか、来年30だとか、
そういうのがピンと来なくて。
よく考えたら30前後の大人たちが集まって動物園って
話だけ聞いたらちょっと、どうなの。
けれども ものすごく幸せだった。


年月を経ても、繰り返していけること。
わたしの幸せって、きっとそこにある。
生きているってそういう事。
また、会おうね。



はじめてのZOO ⇒http://d.hatena.ne.jp/mari-2009/20120630/p1




追伸:相変わらず、きりんは美しかった。

ゲンジツテキ


将来の、夢?

大人になるとさ、自分のできることがだいたいわかってくるから。
みとおし が経ってくるから。

目標だって、夢だって、おんなじで
できそうなこと、ちょっと頑張れば出来るかもしれないこと。
そういう事だけ考えちゃう。

トーマスの運転手になりたいなんて、
なれるとしても狭き門すぎる。とか
ましてや、ポケモンのサトシになりたいなんて、思わない。
他人になり替わることはできないって知ってるから。

知ってるってことは、べんりで、不便で。


なんにでもなれるなら、何になるかな。
わたし、そうだなぁ、かわいいキャラクター作り出して、
商標登録とかしちゃって、一生お金にこまらないでちょっと田舎で暮らしたい。

ああほらね結局、ゲンジツテキ。

みぞれ


「息をするようにお話を書きたい」

重松清/みぞれ あとがきより


わくわくして
どきどきして
謎を解いたり
奇跡が起こったり
大号泣で感動したり



、しなくていい。

「世間の中から生み出される、暮らしと地続きのお話だって捨てたものではない」

まさに、そういうお話がすき。
どこかにいる誰か。
その会うことのない人の、日常のひとこま。
そのなかに、ちょっとだけ、ジンとくる言葉や、へぇと思う知識や、なるほどなと思う価値観を見つけられたら、それだけで十分。
文学(なんて高尚な捉え方はできてないけども)の楽しみ方はひとそれぞれで、好きな本なんてそれこそものすごく好みが出る。すきな本が似ているとそれだけで嬉しい。好きな本が全く違うとそれはそれで面白い。本は読まないっていう人はもったいないなと思うけれど、私がゲームをしたことがないと言うのと似たようなものかもしれない。

息をするようなお話。
みんな息をしている。どんな人も、世界共通。
わたしは今日も、息をしながら、息をするような本を 読んでいる。

カメ子。

去年の7月に、10年付き合ってきたカメラが壊れてしまった。
考えてみればろくに手入れもしないで、よくぞ私に付き合ってくれていたもんだ。
ここ最近ではAFがうまく作動しなくて、視力の落ちたわたしを困らせた。

ただ、蓋が閉まらなくなっただけだけれども、
ちょっと、かまって なのか、
ちょっと、休ませて なのか、


とんと写真を撮らなくなってはいたものの、
撮れないとなると、なんだかむずがゆい。


「しない」とか「会わない」とか「言わない」とかはいつも
選び取れる中で、魅力を発揮する。
撮れないから、撮らない のと
撮れるけど、撮らない のでは
こころもちが全然ちがうのよね。


初めてとった写真を思い出してみた。
多分、室内で、パソコンのキーボードを撮ったのだ。
まだなんの知識も持たずして、ボケ感を試してみたかったのだ。

そして、壊れる前の最後の写真を現像してみた。
息子の写真だった。
住んでいる場所も、置かれている状況も、名前だって。違うね。


散々まよったあげく、結局修理に出した。
1社目は「部品欠品につき、修理不可能」と、返信がきた。
そりゃそうよね。10年以上前のものだもんね。

2社目は「多分大丈夫だからとりあえず送って」のスタンス。
そして、無事、50ミリレンズの修理も(AFじゃなくて、レンズの不具合だったみたい)済んだ状態で帰ってきた。
おかえり。

散々まよったのは、今更10年以上も前の中途半端なフィルムカメラ使ってるんなら、いっそのこともっとマニュアルな手巻きのフィルムカメラに買い換えちゃえば良いんじゃないか。どうせあまり撮れてないし。と思ったから。
そして迷った結果修理したのは、10年以上も使って、今更新しいカメラに買い替えなんてしたってもっと撮らなくなるだけなんじゃないか。次に壊れたら、次こそは買い換えよう。
そんな気分で。
次壊れたら、また結局もう一度悩みそうだけども。
"物を大切に"とはまた違う気がする(わたしカメ子を大切に扱ってあげたことなんてほぼ無いに等しい)。どちらかというと、"共に"みたいな。

帰ってきたら、無駄に撮ろう。っておもって、1本は本当無駄に撮りきった。
はやく現像したい。